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中国のチベット学(一)

  チベットは中国の南西部国境地帯に位置する。大昔から、チベットの人々は「世界の屋根」と呼ばれている青海?チベット高原一帯で働き、暮らし、子孫を残してきた。長い歴史の過程において、チベットの人々はその勤勉さと英知で、多彩な物質文明と精神文明を築き上げてきた。56の民族からなる統一した中華民族の重要な構成部分の一つとして、チベット民族はずっと国内のその他の少数民族と政治、経済、文化などの面で密接な関係を保ち、お互いに学び合い、助け合い、ともに中華民族の文明史を書き上げた。長期にわたってチベット族は漢民族およびその他の少数民族と多くの面で同じかあるいは類似した特徴を保ってきた。それと同時に、自然環境、地理的環境、宗教、信仰、歴史の変遷など数多くの要素の影響を受けたため、チベット族の文化はまた鮮明な地域的色彩と濃厚な民族的特色を持ち、中華民族の文化の宝庫を豊かにしている。

  時代の推移につれて、チベット族の形成、発展とその政治、経済、文化、社会などの分野の問題を研究する総合的科学――中国のチベット学が次第に発展をとげ、充実し、中華民族の学術の一分野となるとともに、世界の学術界の注目を集めている。  

  中国のチベット学には長い歴史がある。古代のチベット族の学者がチベットの歴史、文化をまとめて書き上げたチベット語の古文書は非常に多い。その数量は、中国各民族の古い文献の中で、漢字で書かれた文献に次いで2位を占めている。約2000年前の秦?漢の時代の漢字で書かれた文献の中にも、青海?チベット高原における人類の活動に関する記録がある。その後、特に隋?唐の時代に入ってから、チベット族とその歴史、文化を漢語で記録した文献、史書、地方誌、保存公文書と個人のいろいろな著述がだんだんと増え、内容も非常に豊富になった。そのほか、蒙古語、満州語などで記録されたチベットの歴史に関する資料も非常に多い。これらの史料は、チベット族の歴史?文化の推移と発展の過程および国内の各兄弟民族との密接な関係を記録しており、伝統的チベット学の大きな宝庫を形成し、チベット学を研究するための貴重な資料となっている。

  1840年の中国とイギリスの間のアヘン戦争以後、外国の勢力がさまざまな方面からどんどん中国に深く侵入し、チベットはその他の省?自治区と同じように逐次半植民地となった。19世紀末から20世紀初めにかけて、イギリス帝国主義は清朝末期の政府の腐敗、無能を利用して、二回にわたって横暴にも出兵してチベットに侵入した。その後、さらに当時の中国の中央政府が1911年に勃発したブルジョア民主革命の弾圧を急いでいることに乗じて、「チベット独立」を画策し、中国からチベットを分割しようとした。この期間には、帝制ロシアもチベットを分裂する一連の陰謀活動を行った。帝国主義の侵略はチベットの人々を含む全国人民の激しい憤慨と抵抗を引き起こした。愛国主義的伝統に富む中国各民族の知識人は国の恩に報いるために、さらに視線を帝国主義の侵略のため激変しているチベットに向け、真剣にチベット問題を研究し、チベットを治め、国境地帯を安定させる対策を模索した。そして、あらゆる困難と危険をものともせずチベットに赴いて実地調査を行った者も、文献や資料の収集、整理に専念して、チベット学に関する多くの論著を書き上げた者もいる。おおまかな統計によると、1911年から1949年の中華人民共和国樹立以前まで、チベットに関する国内の著作は400ないし500種に上り、チベットの歴史、文化、宗教、政治、経済、教育、地理学、民俗などの諸分野に及んでいる。これらの著作のほとんどはさまざまな資料で、チベットについて深く掘り下げた論述を行い、その中で、近代チベット学の古典的存在となったものも一部ある。しかし、半植民地、半封建の旧中国では、チベット学研究事業の発展はさまざまな不利な条件の厳しい制約を受けた。

  中華人民共和国成立以後、中央人民政府がチベットの経済の成長、社会の進歩と民族文化の保護を非常に重視したため、中国のチベット学研究事業は新たな発展段階に入った。  

  1951年、チベットが平和解放された後、まもなく中央文化教育委員会、中国科学院は社会科学研究者からなる科学作業グループをチベットに派遣し、チベット地区の政治、経済、歴史、文化などに対して広範囲の実地調査を行って、多くの貴重なナマの資料を手に入れ、中央人民政府のチベット工作に関する方針と政策を制定する面で科学的な根拠を提供した。  

  1958年に、中国共産党チベット工作委員会は約70人からなるチベット社会歴史調査グループを組織して中国科学院民族研究所の少数民族社会歴史調査グループの専門家、学者と緊密に協力し、チベットについてさらに広範囲の調査?研究を行った。調査グループはチャムド、ラサ、ロカ、ナッチュを含むチベットの大部分の地区を踏査し、歴史学、社会学、民族学、考古学、言語学、古人類学などの学科に関する重要な資料を手に入れると同時に、国内のチベット学界の専門家、学者はさらに過去から残されているチベット学の文献や資料の収集、整理、検討の作業を行った。これらの調査?検討を通じて、チベットの社会の性格が確定され、それ以後行われた民主改革のために科学的な理論的根拠を提供しただけでなく、新中国のチベット学研究のため、きわめて貴重な資料を蓄積し、初歩的な研究の基礎を固めた。  

  1959年に、チベットの人々は中央人民政府の指導の下で、もとのチベット地方政府上層部の反動グループが引き起こした武力反乱を平定し、旧チベットの上層部の僧侶、貴族の連合独裁の「政教一体化」封建農奴制度を廃止し、チベットの民主改革の障害を一掃した。それ以後、チベットの百万にのぼる農奴と奴隷は解放され、新チベットの主人公になった。チベット社会のこうした歴史的な飛躍は、チベット学の研究のために展望を切り開くとともに、チベット学研究者にも新しい歴史的任務を提出した。つまりチベット族の優れた伝統文化を受け継いでそれを発揚し、チベットの経済成長と社会の進歩を促し、団結し、裕福になることを目指す、文明的な社会主義の新しいチベットを建設するために奮闘することである。

  反乱を平定し、改革を行った後、チベットの社会、経済は急速な発展をとげ、文化事業も高揚を迎えた。この時いらい、チベット学研究者は関連部門の助力の下で、民族の文化遺産の収集、整理、研究?検討に力を入れた。1959年に発足したチベット文化財管理委員会は効果的な措置をとって、さまざまな文献、古籍を適切に保護し、いくつかの古跡を修繕し、数万にのぼる貴重な文化財と大量の文献、保存公文書類を収集し、整理した。1960年、チベット自治区の各委員会、民族委員会は正式にチベットで最初の21カ所の保護指定文化財を公表し、そのうちの9カ所は国務院がその後に公表した国家クラス重点保護文化財に属している。それと同時に、チベット族の民間の文学?芸術の遺産を発掘、保護する仕事も展開され、大量のチベット族の民間の音楽と舞踊の資料を収集し、整理した。チベットの地方劇の伝統的演目を整理、改作した。民間に広く伝わっているいくつかの歌謡、民謡、寓話、神話、伝説と民話をそれぞれ一冊の本にまとめるとともに、これらの民間の文学?芸術の遺産に対して基礎的研究を行った。チベット自治区準備委員会はまた前後して五つの仏教学研究グループを組織し、数えきれないほど多いチベット仏教の経典の整理に着手した。  

  1951年から1966年にかけて、中国のチベット族のチベット学研究者は大がかりな社会調査と民族文化の遺産の発掘、整理を行い、多くの科学研究資料を蓄積したほか、チベット学研究の専門の人材を育成し、多くの研究成果をおさめ、研究活動の全面的展開のための基礎を固めた。

  残念なのは、新中国のチベット学研究の事業がスタートして間もなく、10年間も続いた「文化大革命」が発生したことである。この動乱は、全国各民族人民に大きな災禍をもたらし、チベット学研究の事業も例外ではなかった。しかし、関係部門の多くの幹部と大衆は依然として仕事を堅持し、多くの文化財と古籍を保護した。多くのチベット学研究者は困難な条件の下でも自分の仕事を中断しなかった。周恩来国務院総理みずからの関与の下で、ポタラ宮、チョカン寺など世界的に有名な歴史文化の宝庫は保全され、破壊を免れた。

  1978年、中国共産党は偉大な歴史的意義を持つ第11期中央委員会第3回全体会議を開いて、徹底的に「文化大革命」を否定し、民族、宗教、知識人などに関する政策を実行することになった。林彪、「四人組」反革命グループの迫害を受けた各民族の多くの専門家、学者の束縛を解いて自由の身にし、再び自分の持ち場に戻らせ、中国のチベット学研究の事業は新しい春を迎えた。この10年来、中国のチベット学研究の事業は急速な発展をとげ、その成果はこれまでのいかなる歴史的時期を上回るようになった。



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