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鑑真の上陸地―坊津を訪ねて
2011/02/16
 

 1200年余り前、一人の唐の高僧が幾多の苦労のすえ、日本に渡って、仏教を広め、文化を伝え、友誼の種を播いた。中日友好史に大きな足跡を残した鑑真大師だ。鑑真との関連では、すぐに揚州や大明寺を思い出し、また日本の奈良や唐招提寺を思い出す。しかし日本に渡った鑑真はどこから上陸したのかと聞かれると、おそらく知っている人は少ないだろう。

 鑑真の上陸地は美しい入り江で、海中に幾重にもそそりたつ石の山に囲まれている。その名を秋目浦と言い、九州の南端南さつま市の坊津に位置している。明代の史書「武備志」の記載によると、当時坊津の名声は高く、日本にいくつかある良港の一つだった。

       

 春節(旧正月)中、県知事の招きで、鹿児島を訪問した程永華駐日大使一行は、最初の場所として鑑真の上陸地を選び、この中日友好の先賢をしのび、崇敬の念を表した。鹿児島空港から車で、曲がりくねった山道を2時間余り走って、入り組んだ海岸線が見えた。車はもうしばらく走り、海に臨む高台の中程で止まった。その下は上陸の際の長い砂浜、その上は地元が建てた鑑真の記念館、記念像と上陸記念碑だ。

       

 数十人の地元の人々が両国の国旗を振って、程大使一行を歓迎した。顔には友好の笑みがあふれ、口からは日本なまりの「ニイハオ」、「ホアンイン」が突いて出る。寒い冬にもかかわらず、現場は温かさが漂っていた。案内に立った南さつま市長は「中国大使の来訪は20余年ぶりで、市民は大変喜び、心から歓迎している」と説明した。

 石段を登ると、平らな広場があり、中央が鑑真記念像だった。記念像は中国で取れた大理石で造られ、キラキラ輝いている。台座は花崗岩ででき、古代の舟の形をしている。大師像の後は、小さな仏龕のような石碑で、「鑑真大和上」の五つの文字と大師の航海の簡単な年表が彫られている。大師は舟の上に鎮座し、海の方を向いている。程大使は座像を見上げながら、石碑の文字を細かく読むとともに、一行と日本側案内者の先頭に立って大師像に頭を下げ、手を合わせた。この時、市長が意外な動きをした。手で大師座像の膝を何回か軽くなでながら、説明する。「鑑真大師がここから上陸したのは地元にとって果報であり、住民は大師を神明のように奉じ、大師は民衆に幸福と幸運をもたらすと考えており、長い間に座像の膝をなでる習慣が出来上がった」。それには大師に対する地元民の最も素朴な崇敬と熱愛の気持ちが込められていたのだ。

       

 坂を上がると、鑑真大和上渡滄海遥来之地の十二文字を刻んだ大理石の記念碑が建っている。さらに上がると鑑真記念館がある。

 鑑真記念館は丘の最も高い所に建てられ、同じく海の方を向いている。透明なガラスの壁が使われており、見学者は下を見下ろし、遠くに大師が上陸した入り江と砂浜を眺めて、古代に思いを馳せることができる。記念館の中心的陳列は、大師の生涯と渡日について紹介する常設展示で、唐招提寺のものを模した、大師の乾漆座像、鑑真研究書のほか、近年の鑑真をめぐる両国の交流に関する文字、写真資料などがある。記念館はそう大きなものではないが、毎年多くの国民が見学に訪れることを関係者は大変誇りに思っている。唐招提寺にある鑑真大師乾漆座像もかつてこの地を訪れ、人々の拝謁を受けている。その時から、ここでは毎年唐招提寺の長老を招いて法事を執り行い、先哲をしのんでいる。

       

 記念館館長は弁舌爽やかに、大師の日本渡航のあゆみを詳細に説明し、歴史の場面がわれわれの前に次々と再現された。

 紀元742年、日本の僧侶栄睿、普照が揚州の大明寺に来て、鑑真に仏法興隆のため日本に行くよう要請した。弟子たちは海路の安全を心配したが、鑑真の意思はすでに決まっており、「法師の身でありながら、どうし命を惜しもうか。みなが行かぬなら、私一人で行く」と言い放った。最初の渡航はその後官府に阻止され実現しなかった。

 紀元744年、鑑真は再度出発したが、船が長江河口で強風を受けて座礁し、寧波の阿育王寺に流れ着いた。地元の僧に残って仏法を説くよう頼まれ、渡航はしばらく中止するほかなかった。

 その後、鑑真は阿育王寺からみたび日本に渡る準備を進めたが、地元の僧侶が役人に知らせて引き止めたため、計画は再び暗礁に乗り上げた。

 同年の冬、鑑真はよたび日本に渡ろうと、ルートを変えて福州を出発したが、大明寺の弟子がその安危を心配し、また官府に阻止するよう依頼して、揚州に送り返した。

 紀元748年、鑑真はごたび日本に渡ろうとし、揚州を出発したが、台風にあって16日間漂流し、海南島に着いて救助され、揚州に戻る途中、病気にかかって両目を失明した。

 紀元753年11月16日、鑑真は6回目の渡航で、九死に一生を得て、ついに12月20日日本の地に上陸した。

 紀元754年、鑑真大師は転々として大阪に到着、日本の朝野は盛大な歓迎式を行った。天皇は、「伝灯大法師」の称号を与え、東大寺の住職とし、戒律伝授の重任を委ねるとともに、日本全国の仏教実務を管理させた。大師は戒壇を立て、唐禅院を設け、僧侶・信徒を訓練し、当時の仏教の誤りを正し、日本仏教の発展をはかり、「律宗之祖」と奉られた。また奈良で唐招提寺の建立を指導し、日本の建築、彫刻史上で、「唐招提寺派」を形成した。大師は医学に精通し、「鑑上人秘示」を残しており、かつて天皇の頑固な病気を治癒させ、日本の漢方医薬の祖先とされている。さらに、書道芸術の水準向上にも極めて大きな貢献をした。

 紀元763年、鑑真大師は両足を組んで座り、大唐に向かい、目を閉じて圓寂した。日本に着いて仏法を広めてから、丸10年が経っていた。鑑真大師を記念するため、日本の文学者真人元開は「唐大和上東征伝」を執筆し、弟子たちはいまも供えられている大師の乾漆座像を製作した。

 程大使は館長の説明にじっと耳を傾け、ときおり足を止めて、歴史的な写真に見入っていた。そして取材に訪れた日本の記者に、次のように語った。きょうの見学を通じて、鑑真大師の偉大さを一層深く感じ、博愛、平和、開拓、開放というその気高い精神を感じた。鑑真の精神を受け継いで、中日の代々の友好をたえず進めていかねばならない。記念館館長の求めに応じ、程大使は、鑑真の精神は後世に残り、大師の偉業は永遠に伝わる、と記帳した。

 記念館を出た程大使は、「鑑真大和上渡滄海遥来之地」の碑を再び仰ぎ見るとともに、地元の市長と一緒に、記念の植樹をした。このとき、みなの共通の願いは、中日友好が常緑樹のようにいつまでも青々としているように、また中日の平和共存、代々の友好、互恵協力、共同の発展という崇高な事業の担い手が両国にもっと多く現れるようにというものだった。